| 「アナログテレビはなくならない」 〜地上波デジタル凍結を提言する〜 -Part2- |
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| ・テレビが見られない!? ・地上波のデジタル化とは ・デジタル化の経緯 ・放送デジタル化のメリットはあるのか ・デジタル化は「いばらの道」 ・いくらかかる?「アナアナ変換」 ・米英であいつぐ地上デジタル放送計画の延期 |
・国民のニーズはあるのか ・総務省よ、どう責任をとるつもりだ ・インターネット利用者数の推移 ・「国民主体」の解決策を ・地上波デジタル化の凍結 ・通信との共存で放送サービスの向上を ・放送の役割とアナログの機能 |
国民のニーズはあるのかそもそも、地上波のデジタル化に対し、肝腎の国民の意向把握はなされているのか。それどころか、内容の周知すら満足になされていないではないか。 地上波デジタル化について、総務省(旧郵政省)が国民にその意志を問うた形跡はない。いわゆる行政主導というお得意のパターンだろう。もっとも、電波行政などは一般の国民にわかり辛い内容なので、あえてそうした配慮は必要ない、と判断したのかもしれない。仮に「テレビ放送をデジタルにします。今までどおり無料放送ですし、こうゆうメリットがありますよ。」と説かれて、賛成しない国民は少ないだろう。しかし、計画の発足(97年)当初とは明らかに状況は変わっている。先述したような、アナアナコストの莫大な負担や先行国の失敗例を示されて、それでも地上波デジタル化に納得する国民が一体どれほどいるだろうか。その上、「今あなたの家庭にあるアナログテレビがいつか映らなくなりますよ、高価なデジタルテレビに買い換えなければなりませんよ。」と明言されてなお賛成を唱えられる人が果たしているのだろうか。 懇談会の報告書は、デジタル化のメリットのひとつに高画質・高音質をあげているが、多くの学者が指摘するように、高性能でハードが売れることはまずない。キラーコンテンツの存在が消費を増進するのだ。そのことは、かつてNHKが鳴り物入りで始めたアナログハイビジョンの普及失敗や、2000年末にスタートしたBSデジタル放送の失速を見ても明らかである。地上波デジタル成功の鍵を握ると目されていたBSデジタル。デジタル受信機の普及「1,000日、1,000万台」を合言葉に勇躍発進したが、開局から一年余を経た2001年12月末で、ようやく累計100万台近くに到達したにすぎない。いかに高性能で多機能な放送受信をアピールしても、独自の、魅力あるコンテンツ(番組)がなければ、消費者はコストを投下しないのである。
2001年12月末日現在 JEITA調べデータによる
総務省よ、どう責任をとるつもりだ総務省ではなく、民間調査会社のビデオリサーチが行ったデジタルメディアに関するアンケート調査結果がある。調査は昨年8月から9月にかけ、全国の12歳から69歳の男女を対象に郵送方式で行い、2011人から有効回答を得たものだ。それによると、2003年から地上波のデジタル化が三大都市圏で始まる見通しであることを知っていると答えた人は18%で、2割に満たない状況だった。さらに、2011年には地上波が全面的にデジタル化され、現在のアナログ放送がなくなる見通しであることを知っているのは11%だった。同社では地上波のデジタル化について、「現状ではほとんど浸透していない」と分析している。 さらに、地上波放送をとりまく環境の変化として、「ブロードバンド」という強敵の出現がある。驚異的なインターネットの普及スピードは、無言のうちにインフラの改善を促し、今や「ブロードバンド」という、コンテンツ視聴においてはテレビネットワークに代替できるような広帯域網を実現させようとしている。まさにドッグイヤーを象徴する通信メディアの変革の激しさに、同じく所轄官庁である総務省は後塵を拝するばかりだ。純粋な市場の原理で膨らみつづけるインターネットの世界に、行政の指導力は通用しなかったばかりか、満足な予測すらかなわなかった。地上波デジタル化計画の発足当初には、誰もブロードバンド時代がこれほどまでのスピードで到来するとは考えなかったのである。
当然ながら、ブロードバンドの発展は即ち地上波デジタル放送移行の必要性の低下を意味する。 国民の支持は得られない、コスト算定・捻出の目途も立たない、しかもデジタル受像機普及の見通しが暗い…。事ここに至ると、地上波のデジタル化は、もはや不可能としかいいようがないのではないか。 過去の失敗を繰り返し、予測も外れ、総務省はどう責任をつるつもりなのか。既に何人かの議員が各種委員会で「アナアナ変換」の不当性などを糾しているようだが、2011年までほっかむりしてやり過ごそうという魂胆なのか、相変わらず面子大事の「愛省主義」か、総務省から自戒の声もあがらないし、次善の策を模索する気配すら感じられない。思考停止状態といわざるをえない。
「国民主体」の解決策を無論、責任の全てをひとり総務省に押し付けるつもりはない。何を隠そう、私も昨年の電波法改正には与党議員として賛成に投じたひとりだ。その時点では、先述したような問題点が明らかになっていなかったとはいえ、黙過した自身の責任は重く、その不見識を痛切に恥じ入るものである。 そこで、愚挙といわれるかも知れないが、あえて国会を通過した電波法改正(=地上波放送の完全デジタル移行)に異を唱え、現時点での私なりの解決策を提案したい。行政主導の政策ではなく、国民の視点に立った政治主導のスタンスで勇気をもって政策転換を断行しなければ、この事態は切り抜けられないと信じるからである。 この問題に接して以来、私なりに情報を収集・分析し、かつ幾多の識者や専門家のご意見も拝聴した。その上で実現可能かつ現実的であると判断できる方策を、以下に私の提言として記したい。
地上波デジタル化の凍結まずは、地上波デジタル化を撤回し、当面中止することを提言する。不合理な政策に固執するから思考が膠着するのだ。重ねていうが、莫大な国費を投じ、さらに国民にハードの買い替えを迫り、それでも十分な普及や高いメリットが期待できないと判明した今、この政策に理はない。ドラスティックに白紙に戻すところから発想しよう。 地上波デジタルについては、凍結したところで当面国民の不便はないだろう。問題が残るとすれば、電波の逼迫という状態が改善されず、増加を続ける移動体通信のための帯域を確保できないという点だ。そこで、「アナアナ変換」のみを実施する。しかも、そのコスト増の元凶となる電波混雑地域を除いて、だ。地上波デジタル化を前提にするからもれなく、あまねく対策が必要となり、多額の出費を余儀なくされる。アナアナを、周波数の整理、再配置のみを目的として実行するなら、困難かつ非効率なエリアは最初から除外してプランニングすることができる。 この方針に沿って、専門家も交えて協議、試算してみたところ、当初総務省が想定していた800億円程度のコストで、最大120MHzの周波数確保という成果を導き出せることがわかった。総務省のデジタル化プランだと、地上波の完全デジタル移行が完了し、アナログを停波してやっと確保できる帯域が130MHzだったのである。それに比して遜色ない値ではないか。しかも、周波数再配置で空く帯域は「UHF帯」であり、移動体通信にとって最も利便性の高い帯域なのだこれは効率的なプランだと自負する(下図参照)。 逆にいえば、現行政策のまま実行した場合、デジタル受像機が普及しなければずっとデジ・アナ両波を出し続けることになり、何千億も使って結局周波数確保ができないという最悪の事態も充分考えられるのだ。どちらを選択すべきかは、火を見るより明らかだろう。 アナアナ変換とデジタル移行による周波数帯域の空き状況 hirataku.com
通信との共存で放送サービスの向上を電波は本来、公共物である。地上波デジタルを巡る一連の議論は、その公共性を忘れ、電波を業界競争の具に貶めているという謗りを免れない。繰り返し言うが、利用者である国民の便益を無視した電波行政などあり得てはならないのだ。 話を戻そう。地上波放送においては、急激なデジタル移行は不可能かつ不必要。ただ、ユニバーサルメディアとしての機能の向上、サービスの増進は図りたい。となれば従来のアナログ放送を残しながら、デジタル技術の有効性、メリットを発揮できる方途を探ればよい。 そこで、ブロードバンドに代表される通信分野との共存がひとつの解決策となる。もともと、デジタルテレビの「双方向性(インタラクティブ)」にしても、電波で双方向送受が可能なのではなく、視聴者側からはインターネットなどを介して情報を送るシステムなのだ。即ちデジタル機器としてのメリットを発揮しようとすれば多かれ少なかれ通信ネットワークに依存せざるを得ないのである。放送のデジタル化を、本当に国民のニーズのもとに構築しなければならない時が来たら、光ファイバーなどのブロードバンドやケーブルテレビ網、衛星放送波など、地域や環境によって得意なインフラを柔軟に使い分けてこれにあたればよいのではないか。そもそも、今の地上波テレビにしても、視聴世帯の実に38%がケーブルテレビ加入で視聴しているのである。当然ながら、見る側の立場からすれば、それが地上中継局を渡り歩いてきた電波であろうが、途中で銅線を通っていようが関係ない。それを、出処や通過経路を根拠に「放送だ、通信だ」と峻別したり、放送法や電波法で規定するということの無意味さを、そろそろ認めてもよいのではないだろうか。 むしろ、放送産業の将来を展望した場合、存続が危ぶまれる民放ローカル局などには、CATV等、地元他メディアとの積極的な統合・機能統一を認め、経営の合理化による生き残りの道を開くなど、ユニバーサル・サービスが途絶えないようなビジネスモデル構築を促進するのが、我々政治家や関係省庁の務めではないか。
放送の役割とアナログの機能ただ、巷間によくいわれるメディア未来像としての「放送と通信の融合」については、私は早計に賛成するものではない。いわゆる、すべての情報がIP経由でしか到達しない「Everything on IP」という発想には、メディアの役割という観点から疑問を感じる。話の向きが多少逸れるかもしれないが、そのことに触れておきたい。 通信は、インターネットに代表されるようにユーザー自身がコンテンツを作るコミュニケーションメディアである。しかも通信会社は原則的にコンテンツに関与しない。コンテンツに接触し、入手したい者は、自らアクセスするという能動的行為が必要となる。さらにコンテンツの価値や真偽も自己で判断しなければならない。 他方、放送(地上波テレビ)は、極めて受動的なメディアである。しかも、誤解を恐れずにいえば、多くのテレビ視聴者は、ブラウン管の前で無為な時間を過ごすことを楽しみとしているのだ。日本人のテレビの平均視聴時間は一日3時間半と言われるが、だれもテレビの前でもっと仕事をしようとは思わない。別な言い方をすれば、その一方向性がテレビの魅力ともいえる。 高名なメディア学者デリック・ドゥ・ケルコフ氏は、その著書「ポスト・メディア論」の中で「テレビは相互作用性(インタラクティビティ)を嫌っている」と言い切る。その理由として、相互作用性は辛い作業であり、スクリーン(画面)を見ながら決断を迫られ、失敗もし、順番を間違えたら正さなければならず、さらには常に画面に中途半端でない注意を払わなければならない状況を望む者はいない、としている。 また、テレビはその成長の過程において、公器としての役割を与えられている。「パブリック・マインド」というべきものを醸成するために欠くべからざるメディアなのだ。ケルコフ博士も同著において「テレビの使命は、物事を公共のものにすることである。しかも、それをすべての人々に向けて一斉に行うこと」と述べ、またテレビは「あららゆる人間社会がその存続のためにある程度必要とするもの」と規定している。人々が同時に同じ内容を見ていることで安心感を与えてくれるものなのだ。 このように、テレビにはその歴史を含めて勝れて社会的、集団的な意味合いが既に付加されている。それを、インフォメーション・テクノロジーとしての側面だけで捉えるのは、メディアの役割・特性という観点を欠落させることになる。
技術は素晴らしいものだ。人間の生活を豊かに、楽しくしてくれる。しかし、扱いや起用を誤ると、時として人間社会に不利益をもたらす危険も孕んでいる。今回の一連の「地上波デジタル化」問題は、技術信奉が先に立ち、それが人間にどう豊かさを与えるかといった根本がないがしろにされた悪例といえるかもしれない。 人間の脳は、アナログ的な要素とデジタル的な機能が絶妙なバランスで構成され組織されているといわれる。「Analog and Digital」だ。私は別にアナログ時代を崇拝する“アナクロ”ではないつもりだが、「情報弱者」「デジタル・ディバイド」という言葉に象徴されるように、情報を扱えないこと、デジタル機器を駆使できないことが社会構成要員としての資格を欠くような一律の思考に至りつつあることを危惧する。この発想自体がいかにも「0 or 1」のデジタル的思考といえる。一方で、これだけ電子機器が発達し、情報入手手段が多様化・高速化しても、紙としての「新聞」をめくる行為を世界中の人間がいまなお止めないように、アナログ的な媒体には人間の普遍的な行為や欲求が宿っているものだ。先述した、パブリック・マインドを形成するテレビの役割もそれに近いだろう。それをも否定し「Digital and Digital」 という思考にのみはまると、狭量な一律社会を招来してしまうことになりかねない。 「Analog and
Digital」。このスタンスを忘れて、本当に豊かで便利なメディア社会の構築はありえないと考える。 衆議員議員 平井卓也 |