| ただ、巷間によくいわれるメディア未来像としての「放送と通信の融合」については、私は早計に賛成するものではない。いわゆる、すべての情報がIP経由でしか到達しない「Everything on IP」という発想には、メディアの役割という観点から疑問を感じる。話の向きが多少逸れるかもしれないが、そのことに触れておきたい。
通信は、インターネットに代表されるようにユーザー自身がコンテンツを作るコミュニケーションメディアである。しかも通信会社は原則的にコンテンツに関与しない。コンテンツに接触し、入手したい者は、自らアクセスするという能動的行為が必要となる。さらにコンテンツの価値や真偽も自己で判断しなければならない。
他方、放送(地上波テレビ)は、極めて受動的なメディアである。しかも、誤解を恐れずにいえば、多くのテレビ視聴者は、ブラウン管の前で無為な時間を過ごすことを楽しみとしているのだ。日本人のテレビの平均視聴時間は一日3時間半と言われるが、だれもテレビの前でもっと仕事をしようとは思わない。別な言い方をすれば、その一方向性がテレビの魅力ともいえる。
高名なメディア学者デリック・ドゥ・ケルコフ氏は、その著書「ポスト・メディア論」の中で「テレビは相互作用性(インタラクティビティ)を嫌っている」と言い切る。その理由として、相互作用性は辛い作業であり、スクリーン(画面)を見ながら決断を迫られ、失敗もし、順番を間違えたら正さなければならず、さらには常に画面に中途半端でない注意を払わなければならない状況を望む者はいない、としている。
また、テレビはその成長の過程において、公器としての役割を与えられている。「パブリック・マインド」というべきものを醸成するために欠くべからざるメディアなのだ。ケルコフ博士も同著において「テレビの使命は、物事を公共のものにすることである。しかも、それをすべての人々に向けて一斉に行うこと」と述べ、またテレビは「あららゆる人間社会がその存続のためにある程度必要とするもの」と規定している。人々が同時に同じ内容を見ていることで安心感を与えてくれるものなのだ。
このように、テレビにはその歴史を含めて勝れて社会的、集団的な意味合いが既に付加されている。それを、インフォメーション・テクノロジーとしての側面だけで捉えるのは、メディアの役割・特性という観点を欠落させることになる。
技術は素晴らしいものだ。人間の生活を豊かに、楽しくしてくれる。しかし、扱いや起用を誤ると、時として人間社会に不利益をもたらす危険も孕んでいる。今回の一連の「地上波デジタル化」問題は、技術信奉が先に立ち、それが人間にどう豊かさを与えるかといった根本がないがしろにされた悪例といえるかもしれない。
人間の脳は、アナログ的な要素とデジタル的な機能が絶妙なバランスで構成され組織されているといわれる。「Analog and Digital」だ。私は別にアナログ時代を崇拝する“アナクロ”ではないつもりだが、「情報弱者」「デジタル・ディバイド」という言葉に象徴されるように、情報を扱えないこと、デジタル機器を駆使できないことが社会構成要員としての資格を欠くような一律の思考に至りつつあることを危惧する。この発想自体がいかにも「0 or 1」のデジタル的思考といえる。一方で、これだけ電子機器が発達し、情報入手手段が多様化・高速化しても、紙としての「新聞」をめくる行為を世界中の人間がいまなお止めないように、アナログ的な媒体には人間の普遍的な行為や欲求が宿っているものだ。先述した、パブリック・マインドを形成するテレビの役割もそれに近いだろう。それをも否定し「Digital and Digital」 という思考にのみはまると、狭量な一律社会を招来してしまうことになりかねない。
「Analog and Digital」。このスタンスを忘れて、本当に豊かで便利なメディア社会の構築はありえないと考える。 |